死刑といえばこれ。おそらく最も知られているであろう刑罰の最たるもの。官による正式な死刑である。処罰の程度は凌遅(りょうち・切り刻み)と絞縊(こうい・絞め殺し)の中間。しかし、その内容は一般的に思われている方法(刀剣で首ちょんぱ Ω"ー+ )だけではない。秦以前では首を切り落とす刑は“殺”と呼ばれていたが、秦代以降、徐々に“斬”が広い意味での“殺”に解釈され、首を落とすのは斬首と呼ばれるようになった。刑の執行にあたっては時間的な制約と日どりの制約があった。

先秦時代では“斬”は首ではなく、腰を切断することであった。罪人を椹質(ちんしつ)と呼ばれる木の台の上にうつぶせにさせ、大きな斧で腰からまっぷたつにする。ここから、車裂(車裂の刑を参照)と同じ「裂く」という意味の“車”をへんに、斧を表す“斤”をつくりにした文字を使うのである。

秦、漢の時代には死刑に“斬”、“梟首”(きょうしゅ)、“棄市”(きし)があり、梟首は首を切り落とした後に高い竿の先に架けて見せしめにする刑であり、棄市はにぎやかな市場で首を切り落とす刑である。三国時代の有名な故事、「泣いて馬謖を斬る」のもとになった、蜀の諸葛孔明が執行したのは斬であった。

天子の決裁による重要犯罪者や戦争時における即時執行を除いて、この刑が確定した者は、各司直の審理や朝廷の批准を経て投獄され、一定の期間を経過した後に処刑されるのが一般的であった。この期間と密接な関係を持つのが死刑執行可能期の存在である。古来より、“秋決”と呼ばれ、制限なくいつでも刑を執行した秦代を除いては、常に死刑は秋にしか行われなかった。月のうちの可能日についても、唐の時代の記録によれば、大祭日、清めの日、1日、15日、上弦の日、下弦の日、屠畜を禁じた日、二十四節気の日、休日、雨のやまない日などはいずれも死刑禁止日であり、明の時代では、大祭日、1日、8日、14日、15日、18日、23日、24日、28日、29日、30日、二十四節気の日、雨のやまない日、晴れない日、閏月の一ヶ月間であった。また、どの時代でも、時間的な制約として、昼間なら午後に、夜であれば夜明けに行うのが通例であった。このような感じなので、1年のうちで刑を執行できる日は非常に少ない。これゆえ、刑の執行期間である秋を過ぎてしまうこともあり、そうなると罪人は刑が軽くなり、死刑を免れることが出来た。

刑執行の流れを以下に示そう。形の執行場所(一般には市場)が決まると自分の住む街道の近くで行われることを聞いた民は我先に、と首切り役人に賄賂を渡す。この賄賂を出さなかったり、額が少なかったりすると、その家や店の前で死刑が行われ、とんでもないことになるからだ。そして、三械(さんかい)と呼ばれる首枷、手枷、足枷と、壺手(こしゅ)と呼ばれる両手を固定する横木をつけられた罪人が幌なし車である露車(ろしゃ)に乗せられ、刑の監視官により刑場に連れてこられる。罪人が連れてこられる際の手枷の板には、どんな罪を犯したかひとめで分かるように姓名、罪状が書いてあった。時代によっては罪状などを書いた広い板を背負わせたこともあり、これを“亡命牌(ぼうめいはい)”と呼ぶ。刑場につくと手枷と壺手ははずされ、時刻がきたら処刑するのだが、処刑の前に一杯の酒と一口の食事が出される。この時には罪人の目、口、耳をふさいではならず、家族との別れの時間を与えなければならない。ここで監視官が活躍することになる。監視官はこの時の罪人と家族とのやり取りを注意深く観察し、その表情から罪の真偽を再確認するのである。これを怠ると、冤罪で斬ってしまうことが起こりやすい。事実、斬られるべき陳四という者と釈放されるべき陳四閑や、斬首の陳翁進と鞭打ち刑でよかった陳進哥が、一字違いで誤審されるところであったが、監視官の最後の観察で危うく難を逃れた。中国人は、名前の字数が多くないために、このようなことが起こりやすいのであるが、それならそれでもっと注意深くなって欲しいものである。監察官が注意を怠ったり、賄賂を渡されていたらどうなっていただろう。

ところで、人が斬首刑により瞬時に首を切られた場合、血はどのように噴き出るのであろうか。元代の劇作家、関漢卿の有名な悲劇、「竇娥冤(とうがえん)」によれば、竇娥は打ち首にあう前に、「自分がもしも冤罪であるならば、首を落とされたときに噴き出た血が死刑台の傍にかけられた長さ二丈(約6メートル)の白練絹(しろねりぎぬ)を紅く染めるだろう。」と言ったが、事実そうなったとされている。南北朝時代、梁の天監(てんかん)15年(516)に荊州で行われた斬首では、血は一丈(約3メートル)噴き上がり、紅い霧雨となって降ってきたと言う。まさに血の雨だ。また、晋の元帝、司馬睿(しばえい)が令史(れいし・下級役人)の淳于伯(じゅんうはく)を糧食の納入期限を誤ったとしてこの刑に処したときには、その血は柱にそって二丈三尺(約7.5メートル)も噴き上がったという。話半分としても、約3メートルぐらいは噴き上がるようだ。首は心臓に近いこともあり、また、処刑前には心臓の拍動が極端に高まっているであろうことを考えれば、あながちうそではあるまい。

この刑に処されるにあたり、普通の人間ならばその恐怖には、まず絶えられない。顔面蒼白になり、糞尿を垂れ流し、茫然自失になると言う。しかし、この状況をものともせず、役人をあざ笑うかのように振舞い、反対に首切り役人を恐怖に陥れた豪胆な人物もいた。“竹林の七賢”の一人である後漢の文人、ケイ康は、死を前にして琴を奏でたと言うし、三国時代の魏の高官、夏侯玄(かこうげん)は、従兄である曹爽(そうそう)の謀議に荷担して司馬懿(しばい)に首を切られるが、顔色一つ変えず、全然動じた風はなかったと言う。南北朝時代の江州の長史(事務官)、遠仕斉(えんしせい)は処刑前に、帽子を頭にきちんと載せてくれるよう頼んだし、他国で処刑される際、自分の国の方角にひざまづいて礼をした後切られた者もいた。また、清の金聖嘆(きんせいたん)は処刑前に酒を飲み、「斬首は痛事、飲酒は快事であり、斬首前に酒を飲むことは真に【痛快】である」と言い、その後、息子と離れることの辛さについて対句のやり取りを行い、さらに家人に残した手紙には、役人が中身を調べることを前提に、「よく読め。塩菜と大豆をいっしょに噛めば胡桃の味がする。これを伝えれば心残りはない。」などと、ふざけてみせた。さらに、気功により首を鍛えていて、何度やっても首が切れずに返って刀の方が折れ、これは家族が神に祈ってくれているおかげだと言って釈放された者や、首の筋を先に小刀で切ってからやらなければ私の首は落とせない、と罪人に言われてしまったケースもある。特に荒くれ者は気功を行っている場合が多かったらしく、普通では切れないので、のこぎりで引いて切ったなどという話も残っている。この場合はその罪人がひかれる度にあげる悲鳴が聞くに絶えられなかったという。気功をやりすぎるのも問題か?

このような斬首刑でもやはり工夫をした悪魔はいた。斬首するにあたり、髪の毛や手足を杭に縛り付けて行った者は、ある時髪の毛がない男が処刑者だったので、長い釘で後頭部を柱に打ち付けて行ったという。この他、明の太祖、朱元璋(しゅげんしょう)は首はね大会と称して、一度に15人の僧侶を首だけ出して穴に埋め、大斧で次々にはねさせたという記録が残っている。

死刑の代名詞のようなこの刑であったが、清が滅んでからは銃殺がこれに代わって執行されるようになった。

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