春秋時代から行われていた、人間の体内から腸を引きずり出す刑。刑具は、小刀・鉄鉤(てつかぎ)等できっかけをつくり、その後は様々。

 宋の酷吏であった韓シン(かんしん)はなによりもロバの腸が好物で、客をもてなす宴席では必ずロバの腸料理を用意した。腸の調理には高度の調理技術が必要である。鍋で煮る時間が短すぎると、よく煮えずに硬くなり、かむことができない。反対に煮過ぎると、ぐずぐずになって、うまみが損なわれるので、ちょうど良い火加減は難しい。更に、調理するロバの腸は新鮮でなければならず、一晩でも放置すれば、すぐに変質してしまう。そこで、調理人はうまい方法を考えついた。最高に新鮮な腸を手に入れるためには、調理の直前に腸を手に入れれば良いのである。まえもって厨房の傍らにロバをつないでおき、客がテーブルについて酒盃がまわりはじめたころを見計らって、つないであったロバの腹を割いて腸をつかみ出す。さっと洗って細切れにしたあと鍋に放り込み、さっと炒めて客の前に持っていく。来客の多いときは当然ロバは一頭では足りず、何頭ものロバが厨房の傍らにつながれることになる。
 あるとき、宴席に招かれていた来客の一人が、宴の途中で厠に行こうとした。厨房の傍を通りかかったとき、悲鳴が聞こえてくるのに気づいた客は、その悲鳴のする方に目をやった。すると、柱につながれたロバが鮮血を飛び散らせながらもがき苦しんでいた。この客は関中の人物で、もともとロバの肉や腸料理が好きだったのだが、この一件以来、一口も食べなくなったという。

 このような腸の引きずり出しを、人間に行うのが抽腸という刑である。
 この刑の歴史は春秋時代からであるが、典型的な例は明の時代にある。明のはじめ、太祖朱元璋(しゅげんしょう)は死刑囚に対し、この刑を施した。一本の横木の両端にそれぞれ縄を結びつけたあと、それを高い柱のてっぺんにくくりつける。横木の両端から垂れ下がった縄の一端には鉄でできた鉤を、もう一端には重い石塊をくくりつける。全体が大きな秤のようなものである。鉄鉤のついた方の縄を引き下げ、先端の鉄鉤を罪人の肛門に押し込み、大腸の先に引っ掛ける。縄を掴んでいた手を離すと、秤の反対側に取り付けられた石塊の重みで鉄鉤のついた側が上に引っ張りあげられる。すると、罪人の腸は体の外に引きずり出され、一本の長い紐となってぶら下がる。これにより、罪人は絶叫したかと思うと、失神したまま絶命に至る。

 張士誠(ちょうしせい)が蘇州(そしゅう)を占拠して呉王を称した際、弟の張士信(ちょうししん)は丞相として、黄敬夫(こうけいふ)・蔡彦文(さいげんぶん)・葉徳新(ようとくしん)の3人を参軍(さんぐん:幕僚のこと)に抜擢した。ところが、この3人は凡庸な書生に過ぎず、政治・軍事共に才能はゼロに等しかった。これを受け、この状態を風刺した詩を作ったものがいた。

 丞相 事業をなすに
 もっぱら黄・蔡・葉をもちう
 一夜 西風おこれば
 たちまち枯れつくす

というものだが、まもなく、朱元璋配下の大将軍、徐達領(じょたつれい)によって敗戦し、黄・蔡・葉の3人は腸を引きずり出されて処刑された。高所にさらされた腸は、まさに風刺のごとく干からびた、という。

 明代末の農民蜂起の領袖、張献忠(ちょうけんちゅう)は、ここでもやってくれる。ひっ捕らえてきた官吏に対し、小刀を使って肛門から大腸の先端をつかみ出し、それを馬の足に縛り付ける。馬上の執行官が馬に鞭をいれると、当然のごとく馬は走り出し、あっという間に腸がすべて引きずり出されたのち、限界まで伸びきった腸がブチンッと切断されたところで罪人は死に至るのである。

 日本でも、自分の身の潔白を示す際に切腹などをし、豪胆な者はそこから自分の腸を引きずり出してきれいに並べてから絶命するというが、それほどの苦痛が伴うのがこの刑である。しかし、前述したように、ロバなどの腸料理を、(その現場さえ見なければ、また、見ても平気な者もいるが、)何食わぬ顔で平らげてしまう人間というものは、どのような生き物なのであろうか。対象が食べ物という認識にあるかどうかで、ここまで印象が違ってくるものか。酷刑を考え出すと同時に、ちょっとした思いの違いで残酷さをものともしない人間の空想力、思い込みの力というものは、とてつもなく恐ろしいものだ。