もっとも広範に実施された刑罰。父親が我が子をたたき諭すという教誨、訓戒の意味が含まれ、教刑とも呼ばれる。刑具の素材は大体は竹や木の枝が用いられたが、例外あり。

漢の時代以前には笞杖はなかった。文帝の13年(前167)に、鼻そぎや四肢切断などの肉刑が廃止された代わりに登場した。だが、打つ回数が300回や500回など、あまりにも多すぎたため、この刑を受けたものは死にいたり、結果、肉刑よりも重くなっていた。そこで、景帝の2年(前156)に数を減少させたがほとんど効果がないので、前144年に景帝は500回を200回に、300回を100回に改め、また、使用する刑具の規格を定め、打つ場所を臀部に限定した。これにより、ようやく受刑者の命は助かるようになったのである。しかし、刑を軽くしただけですむ場合は少なかった。

隋の高官が、すっぽん料理を食べていて、従者にすっぽんがうまいかどうか聞いたことがあった。彼を恐れていた従者は「おいしい」と答えたが、この高官は「従者ごときがすっぽんを食べたことはないはずだ」と全員に刑を下した。また、刑具の使い心地を試すために鞭打ったものもいた。さらに、打つ回数だけは少なくなったが、刑具を太くしたり、鉄のとげをつけたりなどして殺傷力を高め、ほんの数回で死に至らしめた場合もあった。

婦女が姦通罪を犯せばこの刑を受けるが、宋、元時代には着ているものを脱がせて打つ決まりがあり、必ず脱がされた。だから、女の受刑者には精神的な苦痛も伴うことになる。民同士の些細ないさかいにより、密告されることはよくあった。その際、役人に賄賂を渡すことにより、辱めの度合いや刑のきつさを上げることができた。この恥辱のため、刑執行後に自害したものもいる。清代には大きな棒で打った挙句、棒の頭を膣に突きたて、さらにはその血を同罪とされた男の顔に塗り付け、さらし者にしたという酷い例もある。

だが中には、刑を執行するにあたっての恩情を考え、危険すぎるので(老人や子供、病人や妊婦など)打ってはならないときや、力の加減をするべきとき、打つ前に猶予を与えるとき、冤罪の可能性を考えて打たないときなどの戒律を立てた者もいたが、あくまで少数派であり、その時々の王朝によって、打つ数や刑具の規格、形状は変わっていき、権力者の気まぐれな行動により多くの受刑者をはじめ、罪がない者までが死にいたったのである。結局、鞭打ちだからといって刑が軽いということは決してなかったのである。