古代、戦場での飛び道具として最も一般的であった弓矢を使って執行する刑。一本の矢で射殺すよりもむしろたくさんの矢で行う方が多かったようだ。近代兵器の銃と違って、一本では殺傷力が弱いからか。

矢で乱れ打ちにする刑は射鬼箭(しゃきせん)と呼ばれた。これは、“鬼の矢を射る”と言う意味(箭は矢のこと)で、遼代に頻繁に行われた。これは遊牧民族の影響が大きい。遼は遊牧民族出身の少数民族が統治する国だったので、当然騎射が得意な者が多い。(ちなみに、後漢時代の暴虐非道の徒、董卓(とうたく)も北方騎馬民族出身で、左右どちらの手からでも同じように弓を放つ技術を持っていたという。)だから、彼らはこの刑を愛用したのだが、漢民族が統治した後にもこの刑は継承された。特に、出陣の際には、一人の囚人に射鬼箭をもって旗揚げの儀式としていた。また、漢代では義理の母親を妻にしようとしていた男が捕まり、木の上に吊り上げられ、500人の射手により射殺された。

唐代の則天武后(そくてんぶこう)の臣下、王懿宗(おういそう)は、匈奴の捕虜となった後に帰朝した楊斉荘(ようせいそう)を敵と通じているとして、この刑に処した。楊斉荘は洛陽の天津橋(てんしんきょう)のたもとにある刑場で手足を切断された後に高く吊るし上げられ、段【王質】(だんしつ)に弓で射られた。<段【王質】は楊斉荘と一緒に捕まっていたが、脱走し、先に帰朝していた。このとき、楊斉荘は災難に遭うのを恐れて、段【王質】の脱走の誘いに乗らなかったのである。>段【王質】の放った矢は3発中3発とも命中した。この後、百官により、一斉に射かけられ、一瞬にして楊斉荘の体には数十本の矢が突き刺さり、まるでハリネズミのようになったという。この壮絶な刑によっても楊斉荘にはまだかすかに息があった。唇がわずかに震えていたのである。これを見た王懿宗はハリネズミと化した楊斉荘の体をおろさせ、刀を胸に刺し込み、下に向けて腹を裂き、心臓をつかみ出した。これをもって楊斉荘の息は絶え、刑の執行は終了した。

矢の代わりに石の弾で人を射つ方法がある。パチンコ(パチンコと言っても、CRとか、平台とかのいわゆるパチンコパーラーではなく、石などを飛ばす器具のことである。昔はよくあったが、今はあまり見かけない。どういうものか分からない人はおじいちゃんなどの年配の方に聞いてみよう。)のようなもの(はじき弓)で石を飛ばすのである。これは刑というよりむしろ権力者の嫌がらせである。春秋時代の晋の霊公は民から搾り取った金で建てた見上げるほどの高楼の上から、下を通る人めがけて弾を射ち、その逃げ惑う様を見て大いに喜び、これを趣味とした。三国時代の魏の斉王、曹芳(そうほう)も人に向かってこの弾を射つのを楽しみとした。朝臣の人物が気に入らないと頭や目に弾を射ちつけ、これを諌めた臣下も同じ目にあった。石で射たれるというのは、矢で射られるよりはだいぶましではあるが、その痛さは相当なものである。運が良くても打撲、最悪、死ぬ場合もある。石の弾で人を射ったという者は数多くいるが、いずれも権力者であったため、法的な規制は何も受けなかったのである。

この他に、紙で作った紙箭(しせん)というものがあった。これは完全に後宮でのお遊びである。紙で作ったやじりの中に、わずかに香の粉末を入れておく。宮妃達を一箇所に集め、離れた所からこの紙箭を放つ。当然痛みはなく、命中した宮妃の体には香が飛び、良い香りにつつまれる。こうなると一層の寵愛が受けられるので、宮妃達は自分にこの矢が当たることを熱望した。この紙箭は風流箭(ふうりゅうせん)と呼ばれ、当時「風流箭の的になりたいわ」という言葉が流行した。

刑にしろ、遊びにしろ、弓を射るという行為には人の上に位置し、征服したいという気持ちがいつも見え隠れしている。