頭と四肢をそれぞれ5つの車に縛り付け、一斉に、馬で別々の方向に引かせ、体を5つに引きちぎる計。車を使わず、直接牛や馬に引き裂かせることもあるので、別名、“五牛分屍(ごぎゅうごろし)”、“五馬分屍(ごばごろし)”と呼ばれる。各国の諸侯が覇を競い合った群雄割拠の時代おいて、各国の君主が、主上を殺害しようとする乱臣賊子を厳罰に処すときに採用されたのがこの刑である。この他にも、倫理にもとり不孝を犯した者への懲罰としても与えられた。

 明代の『東周列国志(とうしゅうれっこくし)』には、第89回に「咸陽(かんよう)市において五牛、商鞅(しょうおう)を分かつ」という記述がある。戦国時代に秦の孝(こう)公に任用され、政治改革(変法)を実行した商鞅が、孝公の死後、敵対した恵文(けいぶん)王のために咸陽で車裂の刑に処された、という話だ。当時は呉起(ごき:戦国時代初期の政治家、兵法家。兵法書である『呉子』の著者。)や蘇秦(そしん:戦国時代の策士。合従(がっしょう)論の提唱者。)、ロウアイ(ろうあい:秦の始皇帝の母后の愛人。)、趙高(ちょうこう:秦の二世皇帝に仕えた宦官。)などのように、死後その体を車裂きにされた例もある。

 春秋戦国時代には、あまりにもこの刑が施行されすぎたため、仁智のある士の間から、残酷すぎるので廃止せよ、という意見も出た。周の赧(たん)王の時代、斉王がこの刑の実施を決定すると、群臣は紛糾の末、思いとどまらせようとしたが、斉王はきかなかった。そこで、子高(しこう:孔子の弟子の一統)が斉王にまみえ、こう説いた。「車裂は無道の王の刑罰であります。にもかかわらず、王は実行されようとなさっておられる。つまりは、王の家臣全ての落ち度と申せましょう。」「なぜそうなるのか?」と斉王が言うと、「天下が麻のごとく乱れている今日、英雄豪傑たちは有徳の君主に一身を預けて大業に参加したいと願っております。もしも王が酷刑を濫用されれば、その声望は地に落ち、英雄たちが近寄ってこないだけでなく、民衆も背叛するようになりましょう。かくなれば、国家の滅亡は火を見るよりも明らかであります。これほどの国家の大事に直面しながらも、家臣らは王のお考えに違背するのを恐れて正しい意見を具申できません。龍逢(りゅうほう:夏王朝の賢人)が首を落とされ、比干(ひかん:殷王紂(ちゅう)の親戚で、紂をきつく諌めた人物。)が心臓をえぐり出されたような事態を招かぬよう、ただただ保身しつつ、王が桀・紂のごとき暴君になられるのを口惜しく思っているのでございます。ゆえに私は、家臣らの落ち度は甚だ大きいと申し上げるのです。」と返した。これを聞いた斉王は子高の進言を入れ、車裂の刑を施行するのをとどまった。だが、秦代以降もこの刑がなくなることはなかった。

 秦代末における農民の大反乱の際、その領袖陳勝(ちんしょう)の部将宋留(そうりゅう)は兵を率いて南陽を占領したが、陳勝が既に死んでいることを聞き、秦軍に投降した。秦軍は宋留を車裂に処した。また、漢代末の農民蜂起の領袖馬元義(ばげんぎ)も、済陽(せいよう)でこの刑に処された。このように古代の統治者は農民反乱に非常に怒りを感じ、捕えた首謀者はもちろんのこと、反乱に積極的に参加したものや最後まで屈服しない者を、全て車裂や凌遅のような酷刑で処分した。

 三国時代においても、呉の国の末年、孫皓(そんこう:最後の皇帝)は車裂の刑を行っている。孫皓の死後、誰が帝位につくか、に関する話で、斉王孫奮(そんふん)か上虞候孫奉(そんほう)か、と言われていた時のことである。孫奮の母の墓は豫章(よしょう:今の江西省南昌市)にあったが、豫章太守の張俊懐(ちょうしゅんかい)は噂の真偽は疑いつつも、孫奮が帝位についたときのことを考え、自らすすんで墓掃除に精を出した。そのことを聞いた孫皓は張俊懐を逮捕し、車裂に処し、更に三族(さんぞく:親、子、孫)を滅ぼした。孫皓は酷刑を濫用した有名な人物であるが、この場合はいいのではないか、という気がちょっとしてしまう。

 五胡十六国時代の統治者の大半は残酷で、酷刑を多用し、当然のことながら車裂もそのうちに含まれていたのだが、ただ残酷なだけではなく、倫理にもとる不埒者への懲罰としてこの車裂が使われていたという記録には少し心を許してしまう。前涼の姑ソウ(こそう:甘粛省武威市)に住む白興(はっこう)という男は自分の娘を妾にし、これに妻が嫉妬すると激怒して、その妻を婢女(はしため)に落とし、娘に仕えさせた。郡県の役所がこのことを上奏すると、涼王は、「古よりこのかた、こんな酷い話は聞いたことがない」と、とても驚き、白興を姑ソウの市中で車裂に処すよう命じた。
前秦の建元(けんげん)3年(367)、朝廷に、母の金銭を盗んで逃走した男を捕えたから、辺境に追放したい、という報告があった。それを聞いた太后(王の母)は怒ってこう言った。「三千もある罪状の中でも、不孝より大きな罪はない。このような不孝者はさらし者にして処刑すべきで、なぜ遠方の地などに流すのか。中国の外に父や母のいない土地があるとでもいうのか。」そして、太后は王に命じて、男を市で車裂に処した。

 同じ五胡十六国時代の北斉の死刑の等級は4つに分かれており、北周では5つに分かれていたが、どちらも最も重いのが車裂であった。いずれも朝廷により明文化されている。

 隋王朝が建国されると、文帝楊堅(ようけん)は開皇(かいこう)元年(581)、新刑法を定め、それまでの鞭打ち、梟首(きょうしゅ:さらし首)、車裂などの酷刑を廃止した。だが、まもなく、その子である煬帝(ようだい)によって各種の酷刑は復活した。煬帝は、謀反をくわだてた楊玄感(ようげんかん)の首をはね、九族(祖父や父、曾孫などにわたる9代の親族)を誅滅し、更に、謀反に荷担した者のうち、死罪者を車裂や梟首に処し、あるいは手足を断ち、無数の矢を打ちたて、更に処刑後の屍体の肉を文武百官にけずり取らせて食べさせるなど、残虐のかぎりを尽くした。

 唐代になると隋の横暴政治が改められ、車裂も行われなくなるが、すぐにまた昭宣(しょうせん)帝の天祐(てんゆう)2年(905)、太常卿(たいじょうけい:儀礼長官)の張廷範(ちょうていはん)は車裂に処された。次の五代時代にも一例ではあるが車裂はある。それ以降も、遼代にのみ、「淫乱不軌の者は五車にてこれをカン殺(車裂に処すこと)す」の規定があり、保寧(ほうねい)10年(978)、平(へい)王の子である陳哥(ちんか)が父王を殺そうとしたとき、車裂に処された。だが、これ以降は正式の酷刑として凌遅や剥皮(はくひ:皮はぎ)などは存在したが、この刑、車裂だけは基本的に行われなくなった。凌遅や剥皮と比べてどちらが残酷か、というと、結論に困るところだが、とりあえず、ひとつの酷刑が表の刑法史から消えたことは喜ばしいことである。