政治闘争の場においてだけでなく、私的な確執によっても行われた刑。メインの刑ではなく、他の刑の補助的な付加刑の意味合いが強く、恨みのために適当に追加したことが多い。やることは単純、ただ舌を切り落とすだけであるが、神経が集中している場所だけあって、生身の舌を切断する痛さは何よりも耐え難いという。ものを食べているときにあやまって舌をかんでしまったことがある人ならよく分かると思うが、別に切れているわけでもないのに一瞬動きが止まるほどの激痛だ。それを考えると、間者(スパイ)が見つかってどうしようもない時に、もしくは、女性が暴行されそうになった時に、自分で舌をかみ切って自害するというのは、よほどの覚悟がなければできないことであると思わずにはいられない。

漢のはじめ、この刑は死刑の予備的手段であり、謀反や叛逆の大罪を犯し、三族(父、子、孫)を誅滅させられるほどの重罪人は、死刑にされる時に舌切りを付加されていたこともあったし、いわれなき誹謗、中傷、罵倒などの罪を犯したものは、黥面(げいめん:刺青)、割鼻(かつび:鼻切り)、足指切断に処される前に、まずこの刑が行われた。後世、明、清に至っても凌遅(りょうち:切り刻み)の刑を執行する前に、罪人の舌を切ったのは、刑を執行している最中に叫んだり、罵ったりさせないためである。時には舌だけでなく、歯も抜き取られた。

場合によっては別の刑で殺した後に舌を切ることもあり、これは、その相手への恨みからくる一種の憂さ晴らしである。漢の郭解(かくかい)は、侠気のあるあつい男だったが、ある儒生は彼をひどく嫌っていた。ある時、役所の宴会の場で一人の客人が郭解の人柄を褒め称えた。これを聞いた儒生は我慢できずに、「郭解はよこしまな無頼さ。いつも法律を破っているくせに、なにが人格者なものか。」と罵った。客人は郭解に心酔していたので儒生の口汚ない罵りに恨みを抱いた。それからほどなく儒生は暗殺され、舌を切り取られていた。

五胡十六国時代では、後趙の石季龍(せききりゅう)の太子、石宣(せきせん)が弟の石韜(せきとう)を殺害した時、石季龍は石韜を可愛がっていたので、石宣を捕らえ、鉄の環を下顎にはめ、鎖をつけて幽閉した。その後、柴草の山の頂上に滑車をとりつけた高い竿を立て、石韜の腹心に髪の毛と舌を引きちぎらせた後、あごに縄をかけ、滑車で吊り上げた。そこで更に目をえぐり、腹を裂き、手足を切断し、柴の山に火を放って業火で燃やしつくした。

この他にも、捕虜となったものが依然罵りをやめないためや、諫言に腹を立てた君主、上官によってなど、言葉に関することで相手の怒りを買った者は大抵、舌を切られるか抜かれている。正妻や妾たちの争いにおいても、主人にうまく取り入ることができたのは口がうまいからだ、と考えられ、対象となる者が舌を切られた例は多い。口は災いの元ということか。

余談だが、後漢末に都を占拠した董卓は、投降してきた北方の反逆者数百人の舌を切り、手足を断ち、目をえぐり、大きな釜で煮殺した。宴席の傍らで行われたこの処刑中、もがき、苦しみ、絶叫する声が響き渡り、その場にいた者は誰一人として食事などできる状態ではなかったが、唯ひとり、董卓だけが悠然と食べ、飲み、談笑し続けたという。

この刑は、ただ舌を切るだけといった派手さはないものであるが、その威力は激痛を与える肉体的な面でも、また反対に、優越感を得たり、憂さを晴らすといった精神的な面でも非常に有効、かつ、過酷な刑であるといえる。



断手(だんしゅ)・・・手切り

字のごとく、手を断ち切る刑である。この刑は、正式な官刑であった場合もあれば、付加刑として適当にやった場合もある。バリエーションとして、指切り、指すり下ろしなどがある。

この刑の元をたどれば、戦国時代末期に行き着くらしい。燕の太子丹(たん)は、後に始皇帝となる強国秦の王、政(せい)を暗殺する為に、武芸の達人である荊軻(けいか)を引き込もうと、さまざまな手を使った。金でも、女でも、千里の名馬の肝でも、何でも与えた。そんな事をしていたある日、華陽台(かようだい)で行われた宴席で、一人の美女が琴を弾いていた。その音色のすばらしいことといったらなく、荊軻は非常な感銘を覚えた。そこで、思わず、「何たる妙手よ!」ともらしたところ、太子の丹はすぐに立ち上がって、この美女を荊軻に贈ろうと言い出した。すると、荊軻は、「私は別にその女の色香に迷ったわけではない。その二本の手がすばらしいのだ。」と答えた。それを聞いた太子は何を思ったのか、その名妓の手を切り落とし、玉の盆に盛ると、荊軻に差し出した。荊軻は名馬の時は肝が食べたかったが、今回は別に手だけが本当に欲しかったのではなく、ただ、その妙手を褒めただけであったのだ。にもかかわらず、荊軻をどうしても手に入れたい太子は、荊軻の機嫌を損ねまいと、こんな事までやってしまったのである。これは別に刑ではないが、断手の発祥はこのあたりらしい。

漢のはじめ、高祖劉邦(りゅうほう)の妻、呂后(りょこう)が、高祖亡き後に政治を専断し、好き勝手をやっていた時期があった。この折り、呂后は劉邦の寵愛があつかった戚(せき)夫人の両手両足を切り落とし、厠に放り込み、“人ブタ”と名づけていた。唐の則天武后(そくてんぶこう)は、夫である高(こう)宗に、王(おう)皇后と蕭淑(しょうしゅく)妃を庶民に落とさせ、別院に閉じ込める事を強要した。高宗が2人の事が忘れられなくて折りに触れて彼女たちに会いに行っていたことを知った則天武后は腹心に命じ、すぐさま2人を杖打ち(むちうち)100回に処し、更には両手を切断した上に大きな酒の甕(かめ)に押し込め、「このおばさん方は、さぞかし骨の髄まで酔ったことでしょう」と言ったという。洒落はきいているが、やっている事は凄まじい。

北宋では、太(たい)宗、趙匡義(ちょうきょうぎ)が、収賄罪の官吏には死刑を科し、斬首の前に腕を切り落とすよう発令した。雍煕(ようき)元年(984)10月、糧秣管理の小役人が軍の食料を横流ししたところ、その者は、手腕を断たれ、縛られて3日間晒された後、斬首に処された。モンゴル族が南下してきた時も宋朝の法令に倣い、断手が刑罰として取り入れられていたが、南宋を滅ぼし、元となった後は廃止された。それは、断手は回族(かいぞく・ウイグルのこと)の法令であり、中国を制覇した今、やる事ではない、という世祖フビライの判断からであった。回族は歴史上、窃盗をはたらいた者に対して断手や指切りの刑を科していた。一部のイスラム教国では今日でも同様の法文を有しているところがある。
この他にも、中国の少数民族の間では窃盗犯に断手を科していたが、その中でもチベット族は“牛皮包手”(ぎゅうひほうしゅ)という特殊な方法を用いる。罪人の掌に小刀で幾すじもの傷をつけ、そこに塩を乗せ、指を握らせた後、生の牛皮で手をくるみ、しっかりと縫いあわせる。一定の日時が過ぎて牛皮を切り開くと、手の肉は全て腐り、ただ白骨だけが露出しているという。この苦痛はただ手を切り落とされる事の比ではない。1959年のチベット解放前夜まで、特権地主たちの中に、この牛皮包手で農奴を苦しめる者がいた。農奴制の崩壊に伴い、ようやくこのおぞましい刑は姿を消した。この牛皮包手に似たものを、日本人もやった事がある。戦時中、寒い地方(普通の服で外にいれば凍えるほど)で、人の腕を前に出させ、、素手のまま固定し、極寒の外で何時間もそのままにする。一定時間が経過し、腕が凍ったところで、その腕にお湯をかけてとかし、それから、凍っていた部分を体に近い方から持って、一気に指先の方に向かって、しごく。すると、手の肉が全てびちゃびちゃと飛び散り、骨だけになる。このような恐ろしいことをすることができるとは、人間とは、なんとおそろしい生き物か。

この他にも、盗みを働いたものは大抵断手の刑を受けている。これは、肉刑が犯罪を犯した“道具”を奪うという名目で行われているからである。盗みを働く為の“道具”は手であるとし、それを奪うのである。(明代では将棋や双六をした者もこの刑に処された。)逃げた者は足切り、強姦者は宮刑という具合だ。盗みを働いた者は妥当としても、死刑にされる者がその付加刑として科される事が多いのもまた事実であり、それは適当に追加されていただけである。死なない刑ほど苦痛が大きいのだ。