中国古代の残酷極まりない刑罰の中で、最も見るに絶えない非人道的な刑であると思われる。
 もともとは陵遅と書き、山や丘の緩やかな傾斜を意味する言葉である。これが刑罰の呼び名に使われるようになったのは、この刑罰の緩慢性からきている。つまり、できるだけゆっくりとした速度で時間をかけて人を切り刻み、死に至らしめる刑なのである。刑具は刀、小刀・短刀である。

 凌遅は、できるだけゆっくり時間をかけて行う刑である。一刀ごとに肉を切り削いでゆき、ほぼ削ぎ終わったところで、腹を割き、首を絶ち、死に至らしめる。だから、この刑はれん割(れんかつ:切り刻み)【咼リ】(か:切り殺し)、寸磔(すんたく:やつざき)などとも呼ばれ、俗語の千刀万【咼リ】(せんとうばんか:めちゃくちゃに切り刻む)というのは、この刑、凌遅の事を指している。

 この種の生きた人間の肉を切り削いで殺す方法は早くからあった。南北朝時代、宋の後廃帝劉c(りゅういく)はみずから人の肉を切り削いだし、北斉の文宣帝高洋(こうよう)も、よくこの方法で人を殺している。また、唐中期の安史の乱(あんしのらん)のとき、常山太守(たいしゅ:知事のこと)であった顔杲卿(がんこうけい)は、安禄山(あんろくざん)で戦ったときに捕虜となり、このように細切れにされた。しかし、この死刑の方法が正式に刑罰として採用されたのは、五代時代にはじまるといわれている。
 南朝宋の詩人陸游(りくゆう)は「犯罪多きゆえ常法をもって不足となし、ここにおいて初めて法外に、とくに凌遅の一条をおく。肌肉すでに尽きるも気息いまだ絶えず、肝・心聯絡して視・聴なお存す」(『渭南文集(いなんもんじゅう)』と記している。つまり、犯罪があまりにも多いので、普通の法では足りず、みせしめとして凌遅の刑を定め、この刑を受ければ、肉を全部削がれてもまだ息があり、感覚が残っている、ということだ。

 しかし、あまりの残酷さに、正式に採用された五代時代において、すでに廃止の声があがっていた。
 後晋の開運3年(946)、トウゲン(とうげん)は、死刑は斬(ざん:切り殺し)と絞(こう:絞め殺し)の2種類のみにして、「短刀を用いて人の肌肉を削り取ること(すなわち、凌遅)」は禁止すべきだと上奏した。時の帝はこれをいれ、2度と凌遅の刑を科すことはなかった。
 北宋になっても五代時代の悪政が糾弾され、凌遅の刑も禁止された。ある内官が盗賊の首領たちを捕まえたときに、みせしめの為に凌遅にて処刑すべきだと上奏したが、これは用いられなかった。
 だが、神宗(しんそう)の煕寧(きねい)・元豊(げんぽう)年間になると、凌遅が正式に死刑のひとつとして採用されてしまう。煕寧8年(1075)、謀反をはかった主簿(しゅぼ:文書係)の李逢(りほう)は、捕らえられたときに、すべて白状した後に、凌遅にて処刑された。南宋の「慶元条法例(けいげんじょうほうれい)」には、より明確に凌遅が斬・絞と同列のの死刑に定められ、この規定は明・清まで変わることなく続いたのである。

 凌遅は、宋の時代では【咼リ】(か)と呼ばれていた。【咼リ】の元の字は咼であり、これは、骨から月(肉月などと言うように肉のこと)を取ったもので、その形状は人の頭蓋骨に似ている。
 後漢の許慎(きょしん)撰の『説文解字(せつもんかいじ)』の釈義では、「人肉を剔(さ)き、その骨を置く」とあり、これは、小刀で人肉を削り取ることを意味している。であるから、【咼リ】の持つ意味は早くからはっきりしており、宋代に至って凌遅の代名詞となってからは、その意味は人々にいっそう深く理解されるようになった。

 『水滸伝』第27回では、潘金蓮(はんきんれん)をそそのかして武大郎(ぶだいろう)を殺害した王婆(おうば)が、裁判官に「りょうちによって処刑するに値する」という判決を下され、寸刻みに切り刻まれた。
 宋代では、凌遅の公開処刑は珍しくなかったので、民間においても仇敵に恨みをすすぐときに、しばしばこの方法が用いられた。
 『水滸伝』第41回では、李逵(りき)が黄文炳(こうぶんへい)を凌遅にて切り削ぐ場面は、以下のようである。
 《(李逵は)「貴様は早く死にたかろうが、俺様がゆっくり殺してやる」というや、匕首を取り出して黄文炳の内股から削ぎ始めた。そして、えぐりとったはしから、うまそうな肉片を炭火であぶり、酒の肴にして次から次へと口に放り込んだ。やがて削ぎ終わって肉片がなくなると、李逵は匕首で黄文炳の胸部をかき切り、心臓をつかみ出して酔い覚ましのスープをつくった》
 『宋史(そうし)』の「刑法志(けいほうし)」には、「凌遅は、まず四肢を断ち、すなわちその吭(のど)を抉(えぐ)る」とあり、水滸伝のこの場面とほぼ一致している。まぁ、削いだ肉片がうまそうかどうかは別問題であるが。しかし、この刑に限らず、憎らしい奴に恨みを込めて、その人物の肉を食うということはよくあることであった。

 元代の法によれば、死刑は斬のみで絞はなく、悪逆大罪の徒にのみ凌遅が科せられ、その方法は宋代と似ている。元の雑劇「天地をも動かす竇娥の冤」(竇娥冤:とうがえん)の一場面である、竇娥(とうが)の父、竇天章(とうてんしょう)の無実の罪が再審理され、判決が下る場面では、「(張驢児(ちょうろじ)が)父親(竇天章)を毒殺し、寡婦を奪おうとした罪は凌遅に値する。市にさらし、木驢(もくろ:死刑囚をのせて引き回すロバの形をした木製の台)に釘付けにして百二十刀で切り殺せ」とあり、『水滸伝』同様、張驢児と竇天章の妻はいずれも木驢に釘で打ち付けられ、凌遅にて処刑された。「奸夫と組んで夫を殺害」した女は、竇娥冤の記述にあるとおり、120回、刀で肉を削がれ、そして、死に至った。

 明代の法では凌遅を明確に死刑の1つに定めている。『大明律・刑律』の「謀反大逆」の項には、「およそ謀反とは社稷(しゃしょく:国家のこと)を危うくするを謀るをいい、大逆とは宗廟・山稜および宮闕(きゅうけつ:宮城のこと)を毀つ(こぼつ:壊す、破壊する、ということ)を謀るをいう。ただし共謀者は首従をわかたず、みな凌遅して死に処す」とある。
 凌遅が刑として確立した背景には、封建専制政治における残酷さが反映されており、統治者が人民の反抗や各種の反政府的行為を鎮圧する際に、どんなに酷くて残酷な手段をも辞さずに用いていたかの証明になる。明の時代、各王朝に捕らえられた農民蜂起の首領や、その他の反逆者は、すべて凌遅によって処刑されたという。
 上では、謀反大逆の重犯罪者は凌遅に処せられた、と書いたが、明代においては、重犯罪者だけでなく、情状酌量の余地のある軽犯罪人についても施行されたことがある。これなどは、やはり他の刑と同じように、刑の施行を決定する者の心次第でいくらでも刑を重くできた封建専制政治の怖いところと言えるだろう。

 上で書いた元代の竇娥冤の凌遅では、執刀回数は120刀であった。これだけでも恐怖に震えるところであるのに、明代では肉削ぎの回数ははるかに増えている。以下に著名な2つの例を挙げる。
 1つは正徳(せいとく)年間の宦官劉瑾(りゅうきん)、もう1つは崇禎(すうてい)年間の進士【奠β】【曼β】(ていまん)にかかわるものである。ケ之誠(とうしせい)『骨董続記(こっとうしょくき)』の「寸磔(すんたく:やつざき)」の項に「世に、明代の寸磔の刑は劉瑾四千二百刀、【奠β】【曼β】三千六百刀、という。李慈銘(りじめい)の日記もまたこれをいう」とある。劉瑾の方は恐らく誤伝で、実際には三千三百五十七刀であるとされている。どちらにしても凄まじい回数であることに変わりはないのだが。

 まず劉瑾の方を詳しく話そう。正徳5年(1510)、劉瑾は謀反の罪で死刑判決を受けた。とくに下された聖旨は、彼を“凌遅三日”ののち、屍体をばらして、さらし首にせよ、というものであった。その時の様子を監視官の知人として現場に居合わせた張文麟(ちょうぶんりん)が詳細に書きとめている。
 《この日・・・・・・早くに食事をとって、城内の西角頭(にしのすみ)にいたった。劉瑾はすでに肉をそがれはじめいていた。凌遅の執刀回数は例のとおり三千三百五十七刀。十刀ごとに一息いれ、一喝して劉瑾を正気にもどす。はじめの一日は親指から手の甲、胸部の左右へと三百五十七回、肉をそぎとった。第一刀目のときわずかな流血があったが、二刀目からは出血がない。一説には、罪人が恐怖にしばられているため血は下腹やふくらはぎにたまり、そぎ終わって胸を開けばそこから一挙に噴きだすという。夜になり、劉瑾はしばられたまま順天府(じゅんてんふ:今の北京)の監獄に護送された。劉瑾はなお二碗の粥を食べたという。朝廷にたてついた賊のしぶとさは、かくのごとし。次の日、東角頭(ひがしのすみ)に場所がうつされた。昨日、刑の執行にあたって劉瑾が宮中の秘事を暴露したので、口にごつい胡桃(くるみ)の実が押し込まれている。劉瑾は数十刀、肉をそがれたところで気絶した。まさに日が昇りはじめるころ、監督官が、凌遅の数に達したので屍を解体する、ただし、さらし首にはしないとの聖旨を読みあげた。劉瑾から被害をうけた者の遺族たちが争うようにそぎとられた肉の山に群がった。その肉を祭って、劉瑾に殺された者の冥福を祈るためである。屍の胸部に大斧が打ちおろされ、骨や血が数丈もとび散った。逆賊のむくいのなんと無残なことか・・・・・・。》  (『明張端岩公〈文麟〉年譜』)
 劉瑾の朝政を牛耳っていた当時の、善良な民に対する仕打ちや悪事の数々からすれば死刑は当然としても、この刑の執行方法を考えてみると、改めて残酷で非人道的な刑であると思わずにはいられない。

 さて、もし劉瑾が罪に見合った刑として凌遅を受けたというなら、【奠β】【曼β】がこうむった惨禍は人々に痛恨の思いを抱かせる。【奠β】【曼β】は 常州(じょうしゅう)横林(おうりん)の出身で、天啓(てんけい)2年(1622)、進士に及第し、その文才と声望は一時、世間を騒がせた程だった。 崇禎のはじめ、朝廷内部の党派争いによって政治的混乱が生じると、【奠β】【曼β】はその渦に巻き込まれ、“母を杖(むちう)ち” “妹を犯した”かどで告発を受け、大逆非道の罪をきせられた。そして崇禎帝はみずから、彼を凌遅の刑に処すように指示したのである。この一件の背景や是非については具体的には不明であるが、ここでは刑の執行時のおおまかな様子を述べておこう。
 《崇禎12年(1639)、8月26日の早朝、聖旨により刑の当日執行が伝えられると、関係司直はただちに ていまん を西市にひきたてるよう役人に命じた。当時の西市は北京皇城の西側、甘石橋(かんせききょう)下の四牌楼(しはいろう:のちの西四牌楼、今の北京西辺)にあり、死刑執行の場所となっていた。慣例によれば、斬首は西牌楼の下で、りょうち は東牌楼の下で行われるようになっていたので、その日も首きり役人らが、手に手に小さな籠をかかえて小屋からでてきた。籠には鉄製の鉤(かぎ)と鋭利な匕首(あいくち)がはいっている。彼らは鉤と匕首をとりだすと、砥石(といし)にあてて砥ぎすました。
 辰巳(たつみ:午前8時〜10時)のころ、監獄役人たちが【奠β】【曼β】を刑場におしたててきて、東牌楼の下に放置した。【奠β】【曼β】は柳で編まれた大きな駕籠(かご)のなかに坐ったままである。頭巾もなければ足袋(たび)もはいていない。彼はひとりの召使いの少年にむかって、一家の後事をことこまかに託している。このときすでに、あたりの道路や空地は、水のもれる隙間もないほど黒山の人だかりで埋めつくされていた。役人の一人が「西城察院(かんとくいん)の長官殿がおみえになられていないので、いま少しお待ちを・・・・・・」と口にしたちょうどそのとき、くだんの長官が前後に従者をしたがえ、人垣をかきわけながらやってきた。
 長官は居ずまいをを正し、声高に皇帝の聖旨を読みあげる。ざわめきがおこり、長官の言葉がかき消された。だが、最後の一句はききとれた。「法にてらして【咼リ】三千六百刀!」――首切り役人らが、いっせいに雷鳴のような大声で唱和する。とりまいた群衆はひとりとして身ぶるいしない者はいなかった。爆竹が3度はじけ、刑が執行されはじめた。
 群衆はいっそう騒がしくなった。家いえの屋根にはいあがった者たちは、あるいは立ちあがり、あるいは背伸びして首をのばし、首切り役人がどのようにして切りきざむのかひと目見ようとする。しかし周囲は群衆がびっしりととり囲み、少しはなれてしまうと執行の様子はほとんど目にすることができなかった。かなりの時がすぎ、二またの柱に一本の縄がかけられた。柱のうしろに縄をくくる係りがいて、縄の先端にはひとかたまりの物体――鮮血したたる人間の肺と心臓がつるされ、柱のてっぺんまでつりあげられた。それは【奠β】【曼β】の肉がすでにそぎつくされ五臓六腑の腑分けがはじまったことを意味していた。
 またしばらくの時がすぎると、柱から肺と心臓がおろされ、ついで人間の頭部がつりあがってきた。【奠β】【曼β】の首が切り落とされ、衆人にさらされたのである。さらに体もひきあげられ、柱に胸部がはりつけられた。群衆の目にとびこんできたその背中は――肌肉は一本一本こまかい麻糸が密集したように切り裂かれており、まるでハリネズミのように見えた。肉はそぎ落とされてはいなかったのだ。このとき、凌遅の刑の終了が宣告された。ふたりの将校が皇帝に切りきざみの執刀回数を報告するため馬にとびのり、手にした紅旗をひるがえしながら東に駆けぬけていった。
 首切り役人らは、おもむろに【奠β】【曼β】の屍体をひきずりおろすと、体についていた肉をこま切れに切りとって、売りはじめた。群衆たちは、吹き出ものを治す薬の原料として、その人肉を買いもとめたのである》(『古学カイ刊』「【奠β】【曼β】事跡」)

 清代にも凌遅の刑は行われた。統治者が農民蜂起の首領を捕らえると、まちがいなく凌遅を科していた。太平天国(清の後期、秘密結社上帝会(じょうていかい)の洪秀全(こうしゅうぜん)が南京に拠って建てた国)の北伐軍が失敗して捕虜となった8人の領袖らは、いずれも北京に送られて凌遅に処せられ、みせしめにされた。また、捻(ねん)軍(嘉慶(かけい)年間の安徽(あんき)・河南一帯の農民蜂起軍)の首領らも同様に凌遅にて処刑された。以下に、太平天国の大物領袖、翼王(よくおう)石達開(せきたつかい)の処刑の様子を書いておこう。
 四川(しせん)の大渡河(だいとか:長江の上流)で敗れた石達開は、四川総督駱秉章(らくへいしょう)に投降した。朝廷が現地で処刑するよう伝えてくると、駱秉章は凌遅の刑を科するべく首切り役人に命じた。ときは同治(どうち)2年(1863)6月25日、駱秉章は賊軍の石達開、曽仕和(そうしわ)らをひきたてる清軍を率いて刑場にやってきた。石達開と曽仕和は、それぞれ向かい合わせに立てられた木の十字架に縛り付けられた。凌遅の刑が開始され、首切り役人はまず第一刀で曽仕和の肉を削ぐ。激痛に耐えかね、絶叫が辺りに響いた。と、石達開が曽仕和をしかりつけた。「ほんの一瞬の苦痛が、たえられぬか!」。曽仕和は歯を食いしばって、痛みをこらえる。石達開は百刀以上削がれても、始終一声もあげなかった。この凛然とした気迫と強固な意志は、清軍の兵士らを震え上がらせた。四川の役人劉蓉(りゅうよう)は「梟桀の強堅の気は顔面に横溢(おういつ)し、吐かれる言葉は高慢でも卑屈でもなく、尻尾をふって憐れみを乞うこともなかった。・・・・・・刑に臨んでも泰然自若、じつに悪人中で最も精悍なる者であった。」(『養晦堂文集』)と記している。

 このようにして、凌遅の刑は清代末まで実施されたが、1898年の「戊戌(ぼじゅつ)の変法」(康有為(こうゆうい)らによる政治改革)後は内外の混乱の中で朝廷も時代の流れに従わざるを得ず、この伝統的な酷刑にも手を加え始めた。光緒(こうしょ)31年(1905)、重刑を取り除くよう上奏がなされ、清朝は凌遅、梟首(きょうしゅ:さらし首)、戮屍(りくし:屍体を辱める)などの法律を「永遠に削除して、ともに斬決に改む」(『清史稿』「刑法志」)と下令した。これでようやく凌遅をはじめとする酷刑は法典から消えたのである。