鼻を削ぎ落とす刑で、“五虐”のひとつ。死刑より軽いとはいえ、生きているが故に肉体的にも精神的にも非常に苦痛を伴う。また、この刑を受けた者はたいてい関所の衛守になるしかなかった。鼻を失い、醜くなった顔は社会生活には適さず、本人も人と接することを嫌っていたので、辺境の地で余生を送ることを余儀なくされたからである。漢民族以外の地においてもみられ、唐代の吐蕃(とばん・チベットのこと)や異民族王朝の金、元をうちたてたモンゴル族でも行われてきた。

戦国時代も末の頃、楚の懐(かい)王には鄭袖(ていしゅう)という溺愛する妃があった。彼女は淫蕩で、しかも、非常に嫉妬ぶかかった。あるとき、魏王がひとりの美人(妃妾)を送ってよこし、懐王はすぐさま彼女のとりこになってしまった。相手にされなくなってしまった鄭袖は彼女に対して非常な恨みを抱き、陥れようとしたのである。鄭袖は彼女に「君王様はことのほかあなたを可愛がっておいででございますが、そのお鼻がいささか気に入らないご様子。お会いになるときは手でお鼻をお隠しになられた方が末永く続きますことよ。」と言った。これを聞き、鄭袖が善意で言ってくれていると思った彼女はそのとうりにした。当然のことながら不審に思った懐王が、鄭袖に彼女が鼻を隠している理由を問うと、「大王様の口臭がたまらないと・・・」と言われたもので、懐王は怒り、美人の鼻を削ぎ落とすように命じた。鄭袖の策により、まんまとはめられてしまったわけだ。やはり、女の嫉妬は怖い・・・。特に宮廷内では一掃拍車がかかる。それにしても弁解の余地はなかったのだろうか。

この刑は夏・殷王朝の頃には既に一般に行われていた。一説には夏でこの刑を受けた者は1,000人を超えるという。また、殷の盤庚(ばんこう)は遷都した際に不仁不義の者、機会に乗じて破壊活動をする者などは軽ければ鼻そぎ、重い場合は死刑のうえ、子孫を断つとの詔を下している。周のときこの刑は正式に五刑のひとつになった。君命にそむく者、規則を破る者、姦淫・窃盗をはたらく者、治安を乱す者、喧嘩・傷害をはたらく者などはことごとくこの刑を受けた。鼻を失い、醜くなった顔は社会生活には適さず、辺境の地で門番をするしかなかった。当時、都から500里外に3つの関所があり、12の関門を擁していたが、それらはいずれもこの刑を受け、鼻を失った者達が守っていたのである。

春秋・戦国から漢に至る時代まではこの刑が一層広まった時期で、非常にたくさんの人が鼻を削がれた。戦国時代、燕が斉に攻め込んできたとき、斉の武将田単(でんたん)は全軍を叱咤して懸命に守ったが、国力の差はどうしようもなく、危機に瀕したことがあった。そのとき、田単は「俺が何よりも恐れるのは、捕虜となれば鼻を削ぎ落とされることだ。」というデマを流させた。燕軍の武将がそれを聞き、斉軍の捕虜の鼻を削ぎ落とした。すると、斉軍の兵士は捕虜となった仲間がすべて鼻を失ったことを遠望し、恐れたが、同時に怒りに震え、一丸となって闘ったために非常に劣勢の状態から見事勝利をおさめることができた。これとは逆だが三国時代の一英雄、曹操が後漢末期に袁紹と行った“官渡決戦”では曹操軍の精鋭部隊が袁紹軍の糧食に火を放ち、敵将淳于瓊(じゅんうけい)を捕らえてその鼻を削ぎ落とし、更に、1,000人以上の捕虜を皆殺しにして鼻を削ぎ落とし、袁紹に送りつけた。牛や馬は唇と舌を切り取ったという話しもある。数えられないほど大量の鼻を見せ付けられた袁紹軍の将士らは肝をつぶし、震えあがった。ここでは相手方の軍の士気を削ぐために行われたので、田単のときとは反対になる。

秦の始皇帝の時代には、この刑は日常茶飯事だった。太傅(たいふ・太子の教育係)の趙高(ちょうこう)は2世皇帝の胡亥(こがい)に刑罰のことを教育するにあたり、手当たりしだいに人間を捕まえてきては鼻を削ぎ、首を刎ねて実習を行った。秦が6国(斉・燕・趙・魏・韓・楚)を滅ぼした後、捕虜となった6国の兵士や農民らは、そのほとんどが鼻を削がれ、ついに市中には鼻のある者より鼻のない者の方が多くなり、鼻のある方がかえって醜いと錯覚されるほどになったという。

明代においては、燕王朱棣(しゅたい)が“靖難の役(せいなんのえき)”を発動して南京を占領したとき、かつて山東で自分の南下に抵抗した鉄鉉(てつげん)を捕らえ、鼻と耳を削ぎ落とし、火であぶった後に鉄鉉の口に押し込み、食べさせた。「味はどうだ?」と聞く朱棣に鉄鉉は、豪胆に「忠臣の肉がうまくないはずはなかろう。」と答えたという。

これは刑ではないが、女性が自分の貞節を守るために自ら鼻削ぎを行ったという例がいくつかある。封建社会の礼節を固守する婦人の中には、夫の死後も他家には嫁がないという決心を示すために自分から刀で鼻を削ぎ落とす者がいたのである。漢の大梁の寡婦は、才色兼備だったが、年若くして夫を失った。金持ちの息子が何人も求婚したが、彼女はいずれも受け入れなかった。このうわさを聞いた梁王が強引に妃にしようとすると、寡婦は鏡を取り出して自ら鼻を削ぎ落とし、梁王の使者に向かって、「本来ならば死をもって私の志を明らかにすべきでございますが、幼な子を孤児にするわけにはまいりません。いま、私はこのような半端者に成り下がってしまいました。どうぞ、ご放念くださいますよう。」と言った。使者の報告を聞いた梁王は寡婦の気概に感じ入り、その節操を表彰した。人々は彼女を“梁高行(りょうこうこう・立派な梁の夫人)”と呼んだという。もう一例、沛(はい)の国の孫去病(そんきょへい)の妻で、もと戴元世(たいげんせい)の娘は、夫が死んだ後、母親が他家に嫁ぐように勧めたが、これに応じず、刀で自分の鼻を削ぎ落とそうとするが、切れ味が悪くて切れなかった。すると、すぐさま砥石で刃を砥ぎ、それから鼻を削ぎ落とした。このように、封建時代の、嫁ぐ前は父に、嫁いでからは夫に、夫の死後は子供に従うこと、そして、婦人の徳・言・容・功をさす、“三従四徳”の教えを守り、その節義を貫くために己の体を傷つけることを恐れない立派な女性もいたのである。

このように、鼻を削ぎ落とすというのは、計略に使うにしろ、罰を与えるにしろ、己の信念を貫くためにしろ、肉体よりもむしろ精神的な意味あいが強いのである。精神を攻撃するため、下手な肉刑よりもよほど酷な刑といえる。