木製の首を固定する刑具で首枷をして縛り付け、役所の前や市中で晒し者にする刑。刑具の枷は、元は農具であった。1本の長い竿の片方の端に短い竿をくくりつけ、長い竿を上下に振りながら短い竿の動きを利用して積み上げた稲もみを打ちつける脱穀農具である。

官の正式な刑罰として決まったのは南北朝時代の北魏である。孝文帝の太和年間(477〜499年)では枷の基準はまだ不統一で、普通は重枷(重い)と大枷(大きい)が作られた。また、枷に加えて石塊がかけられることもあり、石にくくりつけられた縄は肉に深く食い込み、場合によっては頸椎(けいつい)が折れた。だから孝文帝は絶対の証拠がある謀反の大罪でない限りは大枷を使ってはならないとした。それがどのようなものかは分からないが、永平元年(508)の宣武帝の規格に寄れば、長さが一丈三尺(約4メートル)、喉下が一丈(約3メートル)、柄の部分は五寸(約15センチ)と決まっていて、これ以外の大枷は許されなかった。

時代が変わっても規格があったが、やはりそれを無視する酷吏がいた。唐の来俊臣(らいしゅんしん)は10種もの大枷を作らせ、それぞれ、いかにも苦しそうな名前をつけて楽しんだ。同じ頃の索元礼(さくげんれい)は、両手に枷をはめて前に出させ、そのささげた枷の上にレンガを乗せ「仙人、果物を献ず」と称した。記述はないが、レンガを落とせばもちろん酷い罰が加えられたであろう。これなどは現在でも体育会系の部活でよく見かけるリンチの光景に似ている。軽いところでは、上司と酒を飲む場合に、「手が重いな〜。あ〜、もげそう。早くつがせてくれないかな〜。」などと言われ、無理矢理酒を飲まされているような感じか。酒の弱い人にとってはこれも拷問であり、どっちを取っても地獄というところだろう。清代の紙でできた枷もこのようなものである。当時の非常に薄くて破れやすい紙でできた枷を破らずにいるためには少しも動いてはならない。これには紙でできた羽織もセットになっていたが、破らずにいるのは至難の技であり、当然、破れば他の刑罰が科せられ、ほとんどの罪人が重罰を受けた。また、索元礼は、首に枷をさせた罪人を高所に渡した横木の上に立たせ、首にはめた枷を一定方向にねじるという「玉女、梯(はしご)を登る」と称された刑も行った。これは、枷をねじられることにより体もねじられ、首に異常な緊張が強いられるというもの。首がねじ切られた者もいたろうし、落下したものもいただろう。とにかく、この方法でしばしば死人が出たことは間違いない。重さについても各時代それぞれに工夫した者がいて、鉄の板で包まれた枷もあれば、時には百斤(約60キロ)もあったという枷自体が鉄でできたものなど、禁止令が出されたにもかかわらず、一部の者によって使用され続けた。

この他、前部が異様に長くて後部は短く、一種の檻のようになっている枷もあった。これを立枷(たてかせ)といい、皇帝に関わる事件の罪人は、秘密警察により常にこの刑に処せられた。前部の先端は地面に触れるために罪人は座ることなどできず、立ったままでこの枷を支えるしかない。重さは三百余斤(約180キロ以上)といい、罪人はその日のうちに死ぬことがほとんどだった。もしすぐに死ななければ枷の先端部分をやすりで三寸(約9センチ)ほど削る。こうすることでまっすぐに立つことはできなくなり、両足をかがめたまま枷を支えつづけることになり、あっという間に力尽き、死に至ったという。

本来は死ぬような刑ではないと思うが、何かにつけて工夫を凝らし、人を殺すことを楽しむ輩はいつの時代にもいたのである。