“鼎(てい)” または “カク” と呼ばれる、銅か鉄で作られた大鍋で人を煮殺す刑。2つの違いは、鍋に足がついているかいないか、ということである。もちろん足がついているのは鼎の方であり、その数はいうまでもなく3本である。“鼎(てい)” または “カク” を用いることから、この刑を、カク烹(かくほう)、鼎カク(ていかく)、湯カク(とうかく)とも呼んだ。普通は水を煮立てた湯の中で煮殺すが、この水を油に替え、揚げ殺す、炒め殺す方法もある。

 歴史に残る最初の烹煮は、炮烙の刑を考案したのと同じ人物、すなわち、殷(いん)の紂(ちゅう)王により行われた。紂王は、西伯(せいはく・周王朝の始祖)の聖人説をおとしめるために、これを行った。西伯がユウ里(ゆうり・現在の河南省の北端)に幽閉されたとき、その息子の伯邑考(はくゆうこう)は殷の人質となって紂王の車夫をしていた。紂王は、伯邑考を何の前触れもなしに、いきなり大鍋で煮ると、その肉入りのスープを西伯に与えた。西伯が何も知らずにそのスープを食べると、紂王は、「自分の息子の肉を喰う奴のどこが聖人だ!」と得意になって批判したという。このときは刑ではなかったが、これが人を煮た最初の記録である。

 春秋時代になると、周室は衰え、諸侯が覇を競いあい、法制が乱れた。そのような時代、烹煮は人を処刑する時の常套手段となり、国のいたるところで行われた。周の夷(い)王のころ、斉(せい)の哀(あい)公は紀(き)侯の讒言にあい、夷王の手で、大鼎にて処刑された。紀元前547年、宋国の太子であったザは、成(せい)公に幽閉され、自ら首をくくって死んだ。後に、太子の無実を知った成公はとても後悔し、ザの罪をうらなった寺人(じじん・宦官)の伊戻(いれい)を烹煮に処したという。

 そのような時代背景にあり、忠義故に殺された者と、死をまぬがれた者の話をしよう。
 まずは忠義故に死をまぬがれた者。晋の公子重耳(ちょうじ)が鄭(てい)に亡命したとき、鄭の文(ぶん)公に重耳を殺すように進言した被瞻(ひせん)という者がいた。重耳は、このときには殺されず、後に、晋の文公になって鄭を攻めた際、昔、自分を殺そうとした被瞻に恨みを晴らそうと、被瞻の身柄を要求した。被瞻を差し出すことをしぶった鄭の文公であったが、被瞻は自ら出頭し、晋に送られた。晋の文公はとても大きな鼎を用意し、被瞻を煮るときを待ちわびていた。 大鼎の前に引きずり出された被瞻は、両手でその鼎の耳をつかみ、一歩も進まずにこう叫んだ。「晋の将士達よ、よく聞け!今、この世にわしほど国君に忠実な者がいようか。にもかかわらず、自国に忠義を尽くすばかりに、今こうして釜茹でにされるとは!」これを聞いた晋の文公は、被瞻の忠義と勇気に感じ入り、そのまま鄭に送り返したという。
 次に忠義を通して殺された者の話。 斉のビン王が悪性の皮膚病にかかったとき、斉の名医だった文摯(ぶんし)は宋の国に遊歴していた。事態は重く、文摯が呼び戻された。ビン王を診た文摯は、太子にこう囁いた。「大王様のご病気を治すことは可能です。ですが、病気が治った後、大王様は私を殺すでしょう。」 訳のわからない太子が驚いて、その理由を尋ねると、「大王様は長い間しつこい皮膚病にかかっておいでだったので、心中に怒気が鬱積しております。ですから、この怒気を解き放てば病は完治いたしますが、大王様をわざと怒らせた私は許されず、死罪にされるでしょう。」と文摯は答えた。太子は、「先生が父上の病気を治してくだされば、私と母は死を覚悟で言上します。父上は母と私の手前、きっと先生を許されるでしょう。ご安心ください。」と言ったが、文摯は「すでにこうなった以上、私は殺される運命にあります。何も申し上げることはございません。」と答えただけだった。
  さて、その後、文摯はビン王に治療の日取りを約束をしておきながら、わざとその時には行かなかった。文摯は同じことを3度繰り返し、ただでさえ機嫌の悪いビン王の怒りは頂点に達しつつあった。4度目でやっとビン王のもとに訪れた文摯は、靴も脱がずに寝台に上がりこみ、ビン王の着衣を踏みつけたまま病状を尋ねた。顔色を変えたビン王は何も答えない。文摯は、ここで更に、特に気に障る言葉でビン王を刺激した。ついに怒りが爆発したビン王は、文摯を怒鳴りつけ、部屋から追い出した。この後、ビン王の病状は一変し、数日後には今まで長い間苦しめられてきた皮膚病は完治した。病は治ったが、文摯の非礼を許すことの出来なかったビン王は、太子と王后の諌めも聞かず、文摯を生きたまま釜茹でにすることに決めた。刑が執行され、文摯は手足を縛られた状態で、顔を上に向けられて大釜に浸された。火がつけられ、炊きつづけること3日3晩。それでも文摯は死なない。顔色ひとつ変えなかった。驚いたビン王が釜の側に近づくと、文摯はこう言った。「私を殺したいのならば、なぜ顔を下に向けさせないのですか。顔を下に向けられれば陰陽の気が断たれ、私は絶命するでしょう。」 これを聞いたビン王は文摯の体を逆さまにし、ようやく煮殺すことに成功したという。
  しかし、煮えたぎる湯に3日3晩も浸けられて死なないわけはない。日本でも、ある秘伝の方法を用いることにより、煮えたぎる湯に手を入れて、無傷で釜の底の物を取ることができたという話があるが、それは短い時間の間のことであり、さすがに3日も平気ということはないだろう。文摯も、名医であるということから、この手の秘伝は知っていたかもしれない。だが、3日間も平気だったとは考えづらい。これは、話を脚色することで、忠義の士への賞賛と、愚かな王への非難、中傷をあらわしたものであろう。  

 上の被瞻の話は、晋の文公の度量が大きかったために被瞻は死をまぬがれた。いかに忠義であっても、自分を殺そうとしたものを許せず、処刑した人物などこの世にいくらでもいる。それを示すように、文摯は殺された。三国時代、魏(ぎ)の曹操(そうそう)も、自分の病気を治すためには頭を切開するしかない、と言われ、それを信じられずに、当代随一の名医、華佗(かだ)を獄死させた。頭を切り開く、という手術方が確立されていなかった時代において、そのことを信じられなかった、というのはまだ仕方がないとしても、この時代の人の生き死には、やはり、上の人間の度量、腹積もりに左右された面が非常に大きいことは、紛れもない事実であり、恐ろしいことである。

 戦国時代には、他にも人を煮殺した例は少なくない。なかでも知られているのは、楽羊(がくよう)の話である。楽羊は、魏国の将軍だったとき、兵を率いて中山国を攻撃した。中山国の国君は、人質にとっていた楽羊の息子を煮殺し、羹(あつもの・肉野菜スープ)をつくって楽羊の陣に送りつけ、その肉が息子の肉であることを告げさせた。楽羊は、幕舎に腰をおろすと、大杯につがれた羹を一気に飲み干し、中山国攻撃の意志がゆるぎないことを将兵に示したという。こうして、中山国はあっけなく滅びたのであるが、この成り行きを聞いた魏の文(ぶん)侯が、側近の大臣堵師賛(としさん)に言った。「楽羊が自分の息子の肉を喰らったのも、つまりはわしの為だったのか。」 すると、堵師賛はこう答えた。「楽羊は我が子の肉さえ喰らったのです。もはや誰の肉であれ、食べられないものがありましょうか。」それ以来、文侯は楽羊の功績には充分報いたが、彼に疑心を抱くようになったという。こうして、また一人、忠臣が不遇をかこつことになる。

 秦(しん)・漢(かん)の時代になると、烹煮の刑は日常茶飯事に行われるようになった。秦の商鞅(しょうおう)の政治改革(変法)で肉刑が加えられ、烹煮の刑が死刑の一方法として定められた。秦の末年、楚(そ)と漢の動乱の際、劉邦(りゅうほう・後に漢の高祖となる)も項羽(こうう)も烹煮の刑を多用した。周苛(しゅうか)は、劉邦の為にケイ陽(けいよう)を守備していた。項羽に敗れ、捕虜となったが、投降を拒否したため、煮殺された。また、項羽は、成皋(せいこう)の戦いで捕えた劉邦の父、劉太公を肉切り台に縛り付け、側に大鍋を用意し、劉邦に伝えさせた。「直ちに投降しないと、太公を煮殺すぞ。」 すると、劉邦はこう答えた。「わしもそなたも、もともとは共に楚の懐(かい)王を擁立し、兄弟の契りまで結んだ仲。つまり、我が父はそなたの父でもある。今、そなたの父を煮ると言うのならば、わしにも一杯の羹を分けてはくれまいか。」 これを聞いた項羽は、劉邦には効果がないことを悟り、処刑を取りやめたという。

 後漢末、董卓(とうたく)の乱により捕えられた潁川(えいせん)太守(たいしゅ)の李旻(りびん)とその親友、張安(ちょうあん)は生きながら釜茹での刑にあったが、鼎に放り込まれるとき、お互いうなずきながら、こう言ったという。「お互い、違う日に生まれたが、同じ日に煮られるとはな!」 似たような台詞をどこかで聞いたことはないだろうか。そう、同じ後漢末、後に蜀(しょく)の国を興して一英雄となる、劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)の義兄弟の契り、「桃園の誓い」である。「われら3人、生まれた日は違えども、願わくは同年同月同日に死せん!」 この桃園結義は正史には記述がない。しかし、当時の中国にそのような話が多いことから、義兄弟とは同じ時に死にたいものという考えがあったということがわかる。たとえ処刑されても、同じ日に死ぬのがよいものなのであろうか。

 話がそれてしまったが、漢・三国時代以降の話を続けていこう。この時代の後も、烹煮はなくならなかった。正史にも数々の烹煮刑の話が残っている。
 隋になると、朝廷が発布した正式の刑法のうち、死刑は絞(こう・絞め殺し)・斬(ざん・斬首)・凌遅(りょうち・切り刻み)などだったが、この烹煮も非公式の刑として実行されていた。
 五代のとき、後唐(こうとう)の明(めい)宗の長興(ちょうこう)年間(930〜933)、朝命で兵士数千人を率いてロウ州を守っていた姚洪(ようこう)は、反乱軍の董彰(とうしょう)に拘禁されたが、投降しなかった。董彰は巨大な釜で湯を煮立てると、10人の兵士に姚洪の肉を削らせては釜に放り込み、しゃぶしゃぶにして食べた。姚洪は、絶命するまでののしりつづけたという。

 烹煮は、水を煮立てた湯で行うだけではない。油を煮立てた鍋で揚げ殺す方法もあり、これも烹(ほう)、あるいは、油烹(ゆほう)と呼ばれた。
 南北朝時代、梁(りょう)の侯景(こうけい)は、一度は北斉(ほくせい)に亡命したものの、その後、またも南にはしった。北斉の主、高澄(こうちょう)は部下に命じて北斉に残った妻子を捕え、まず顔の皮を剥ぎ取った後、大鍋に油をしき、そこで炒め殺した。
 明初の燕(えん)王朱棣(しゅたい)が “靖難(せいなん)の役”を起こして南京を占領したとき、大殺戮を繰り広げた。このとき、頑強に抵抗した将兵部尚書(しょうへいぶしょうしょ)の鉄鉉(てつげん)は鼻を削がれた後に処刑されたが、それでも朱棣の怒りはおさまらず、鉄鉉の屍体を、油を熱した大鍋に放り込ませた。そして、謝罪の形をとらせるために、鉄の刺叉(さすまた)でつついて、顔を自分の方に向かせようとした。しかし、どうやってもすぐにひっくり返ってしまい、うまく顔がこちらに向かない。そうこうしているうちに、鉄鉉の屍体が突然爆発し、あたりに熱い油と共に飛散した。そして、取り巻いていた兵士たちが逃げ惑うのを尻目に、ばらばらの屍体は炭のように黒焦げになったという。

 烹煮の刑も、炮烙の刑と同様、人間を動物や食べ物のように扱う非道の刑である。しかし、思いつきやすいがためによく行われた、使用頻度の高い刑でもある。ここでひとつ注意したいのだが、これらの刑をこれからの自分の食生活に当てはめ、食事の幅が狭まってしまうことのないようにお願いしたい。あくまで、人間に行うときが非道なのであって、食事の話とは別物であるのだから。