官が定めた正式の刑罰としてはそんなにはないが、 私刑など、それ以外のところではかなり実施されていた。 刑具は小刀、ノミ等である。

 漢書には、漢の景(けい)帝のとき、広川(こうせん)王であった劉去(りゅうきょ)が「生の人を割剥(かつはく)した」とある。 三国時代には、在位中の呉の最後の皇帝孫皓(そんこう)が人の皮をよく剥いだという。呉が滅んで孫皓が晋(しん)に降った 後のことである。 晋の武帝、司馬炎(しばえん)と侍中(じちゅう・秘書のこと)の 王済(おうせい)が碁を打っていたとき、側で見ていた孫皓に、王済が 尋ねた。「聞くところによると、そなたは呉の国を治めていたときに人面の皮を剥ぎ、足を切断したと言うことだが、そんなことがあったのか?」孫皓は、「人臣として君主に礼を失った場合、その者には直ちにこの刑罰を科したものです。」と答えた。これを聞いた王済は、碁盤を置いた卓の下に武帝の近くまで伸ばしていた足を慌てて引っ込めたという。

 五胡十六国時代では、前秦王の苻生(ふせい)が、一群の死刑囚の 顔の皮を剥いだ後、その者たちをうたい踊らせ、それを見て楽しんだ という。 南北朝時代、北斉(ほくせい)の統治者であった高(こう)一族も しばしば人面の皮を剥いでいる。梁(りょう)の侯景(こうけい)が 河南(かなん)王に封ぜられながら北斉から南の梁に逃げ帰ったとき、 裏切られた高澄(こうちょう)は侯景の妻子の逮捕を命じ、まず、顔の皮を剥いだ後、大きな鉄釜に油を敷き、その中で2人を炒め殺した。高澄の太子の高恒(こうこう)も残虐非道な祖父や父の血を受け継いでおり、機会のある毎に罪人の顔の皮を剥ぎ、そのもだえ苦しむ姿を見て楽しんだという。

 六朝(りくちょう)時代の皮剥ぎの刑の大部分は顔の皮 を剥ぐものであったが、その後次第に全身の皮を剥ぐようになっていった。『元史(げんし)』「奸臣伝(かんしんでん)」に、こんな記述がある。 元の初年、世祖の忽必烈(フビライ)は部将の阿合馬(あほま) を誅殺し、家財を没収した。衛士たちが阿合馬の愛妾であった 引柱(いんちゅ)の部屋を捜索中に、衣装ダンスの中から二つの立派な 人の皮を見つけ出した。二つとも完全な形をした耳たぶまでついている。 何に使うのか、と聞かれると、引柱はこう答えた。「呪詛をするときに 使います。神棚に飾り、呪いの言葉をかけると、人の皮が応答するのです。」世祖フビライは、引柱と阿合馬の共犯者ら合計4人を、衆人の前で剥皮の刑に処した。
これなどは、同じ報いを受けたということか。

 明の時代になると、剥皮の刑は最も多用された。
 太祖朱元璋(しゅげんしょう)は、建国したばかりの自国の足元を固めるために、苛烈な方法、“剥皮セン草”を用いた。“剥皮セン草”とは、彼の発明で、皮を剥ぎ、その中に草を詰め込む、というものだ。葉子奇(ようしき)著の『草木子(そうぼくし)』によれば、朱元璋は各地の官吏の責任を問うことに関して特に厳しく、非常に欲深く、また暴虐な官吏がいれば、それを民衆に訴えさせ、汚職が銀60両以上ならば死刑に処した。そのときには、打ち首のあとに衆人にさらしただけでなく、全身の皮を剥いでその中に草を詰めて “人皮草袋(ひとかわのかます)”と呼び、それを役所の門のうちに置いて、他の官吏の目にふれさせ、みせしめとした。また、 この刑の執行は州・県の役所の近くに必ずあった、その土地の神をまつる祠(ほこら)の前で行われたため、その祠は “皮場廟(かわはぎびょう)”と呼ばれた。

 洪武年間、宮中の太監(たいかん・宦官の官庁の長官)で死刑となったものは、一般に斬首ではなく、凌遅(りょうち・切り刻み)か剥皮で処刑された。とくに朱元璋は厳しく、妻をめとった太監にもこの刑を処した。また、明建国の功臣であった藍玉(らんぎょく)は罪を得て死刑にされた後に皮を剥がれたが、その皮をみせしめとして各部署に回覧させるように指示したという。そこで、藍玉の娘を妃にもつ蜀王朱椿(しゅちん)は、自分のところに来たときに藍玉の皮を隠し続けることにした。明末、張献忠(ちょうけんちゅう・明末の農民蜂起の領袖)が四川の成都を占領したとき、靖礼門(せいれいもん)の楼上に美しい公侯の衣服を着た一体の尊者の像を見つけた。よく見ると、皮膚の部分は人間の皮である。これに気づいた瞬間、張献忠はこの皮が藍玉のものであることを悟った、という。これは、歐陽直(おうようちょく)の『蜀乱』の記述である。
 朱元璋の皮剥ぎ法はその子孫にまで伝えられた。第4子の燕王朱棣(しゅたい)は“靖難の役(せいなんのえき・明初の帝位継承をめぐる内乱)”を起こして甥の建文(けんぶん)帝のいる南京を占領、建文帝の忠臣たちに残酷な弾圧を行った。朱棣を刺殺しようとした景清(けいせい)は、捕えられてからもののしりつづけたので、皮を剥ぎ取られ、「皮の棺を作って長安門に張り付け」られた。さらにもう一人の忠臣であった胡閏(こじゅん)も、くびり殺された上に、灰汁につけて皮を剥がされ、“剥皮セン草”されて武功坊(ぶこうぼう・坊は街の区画のこと)の壁にかけられた。
 また、第7代の武宗朱原(しゅげん)の正徳(せいとく)7年(1512)、謀反を企てて捕らえられた趙【金遂】(ちょうすい)は、同士37人とともに処刑されることになったが、その時、武宗は領袖6人の皮剥ぎを命じた。司法官が剥皮の刑がかつて禁止されたことを上奏したが聞き入れず、かえって剥ぎ取った6人の皮で鞍をつくり、出行の際にはその鞍をかけた馬で出かけたという。今思うとなんとも悪趣味であるが、自分に逆らった者を殺し、しかも、そやつの皮を剥ぎ取り、下敷きにして永久に自分に従わせるのであるから、これほど征服感に満ちたものはなかろう。

 また、人の皮で作ったものは他にもある。明初の永楽年間、両広(りょうこう・広東と広西のこと)提督の韓観(かんかん)は凄い。人の皮で座布団を作ったことがあり、この人皮は耳・目・口・鼻などの形が完全に整い、椅子に座ると、背もたれの部分に(皮の)顔がきて、髪の毛が椅子の後ろにバラッと垂れる、というものであった。 何かの猟奇殺人ミステリーにでも出てきそうであるが、これは現実である。他にも、嘉靖(かせい)年間(1522〜66)には、湯克寛(とうこくかん)という倭寇(わこう)討伐で名をはせた将軍は、沿岸を荒らす倭寇の首領を捕えると死刑にした後皮を剥ぎ、その皮で“人皮鼓(じんぴこ)”と呼ばれる太鼓を作った。だが、この太鼓は牛の皮で作った太鼓に比べて響きが悪かった。人皮は牛皮に比べて薄く、きめが細かくないからだということだ。この太鼓は北固山(ほくこざん)の仏院に保存されて、後世、多くの人が目にしているという。

 天啓年間(1621〜27)に宦官の魏忠賢(ぎちゅうけん)が政治を牛耳っていた際にも皮剥ぎの刑は常用された。これは『明史』に「民間での私語が魏忠賢の癇にさわるとたちまちひっとらえられ、ひどいときは皮剥ぎ、舌切りの刑にあい、そのようにして殺されたものは数知れない」と記されているほどである。このときの方法は、融けた松脂(まつやに)を全身に塗りつけ、少し待って松脂が固まったところで、ノミで打ち付ける、というものであった。こうすると、皮が松脂と一緒に剥ぎ取れ、やがて完全な皮殻が出来上がるという。

 明末の酷刑濫用者である張献忠は、前記の藍玉の皮の像を目にしたことから、明の役人の皮を剥いだ。その方法は皇帝たちがやっていたやり方だけでなく、自分流の皮剥ぎ方法を編み出し、それを使っていたときもある。さすがである。蜀を支配してからの張献忠はなにかあればすぐにこの刑を処したが、彼の方法を紹介しよう。受刑者はもちろん生きたまま。まず、首の後ろにメスを入れ背骨にそって肛門までまっすぐに切り下ろし、その後、皮膚を両側に切りはがしてゆく。背中と両肘の間の皮膚はつながったまま左右に剥ぐため、まるで蝙蝠(こうもり)が羽をひろげたかのような格好になる。このようにして皮を剥がれた受刑者は、だいたい1日で死に至ったのだが、もしも刑を受けたその場で死ぬようなことがあれば、その時の執行人は即座に死刑にされたという。

 張献忠の部下であった孫可望(そんかぼう)はのちに明朝に投降して永暦(えいれき)帝から秦王に封ぜられたのだが、彼は張献忠の部下らしく皮剥ぎの名人だった。彼は愚帝の信任あつく、忠臣の諫言もものともせずに、その忠臣の皮までも剥ぎ、非道を極めた。このことは後に魯迅(ろじん)に『且介亭雑文(そかいていざつぶん)』の中で言われているぐらいである。

 田舎の芝居やふとした話の中に“皮を剥いで草をつめる”話がのぼるほど皮剥ぎに始まり皮剥ぎに終わった明朝であったが、次の清朝ではそのなりをひそめ、文書としては残っていない。

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