足切りの刑。周代5刑(墨(ぼく・刺青)、【鼻リ】(ぎ・鼻削ぎ)、宮(きゅう・性器切除)、【月リ】(げつ・足切り)、殺(さつ・死刑、斬首)、の5つ。)のひとつ。5虐のひとつでもある。単に足首から切断するものが一般的だが、このほかに、足の指だけを切断する方法や、膝頭の骨をえぐりだす方法、大腿骨をたたき折る方法がある。いずれにせよ、人の歩行能力を奪う刑である事は確かである。かの有名な軍略家、孫ぴん兵法の孫ピン(そんぴん)も、その才能に嫉妬した同学のホウ涓(ほうけん)の計により陥れられ、両足を切断されたうえ、刺青を受けたという。

後に玉璽(ぎょくじ・帝位の証)となり歴代の王が奪い合った宝玉、“和氏の璧(かしのへき)”を発見し、時の王に献上しようとした卞和(べんか)は両足を切断されている。春秋時代、楚でのこと。卞和が山中で玉の原石を手に入れ、氏iれい)王に献上すると、脂、は宝玉師に鑑定させた。すると、鑑定結果が、ただの石ころに過ぎない、ということで、怒った脂、に左足を切断された。脂、が崩御し、武(ぶ)王が即位すると、卞和は再び原石を献上した。武王が鑑定させたところ、またも、ただの石ころに過ぎない、という結果だった。これにより、卞和は右足を切断された。
そののち、武王が崩御し、文(ぶん)王が即位したが、卞和は今度は献上するのをやめた。両足を切断されて、もう嫌だったからだ。原石をただ懐に抱き、楚山のふもとで号泣した。3日3晩泣きつづけ、目からは涙の代わりに血が流れ落ちた。このことを聞いた文王は、人をやり、げっ足の刑を受けたものは世にたくさんいるにもかかわらず、なぜ、それほどまでに泣くのか、その理由を問いた。すると、卞和は、「私は足切りの刑を受けた身を悲しんでいるのではありません。真の宝玉が石の塊とみなされ、高潔の志士が狂徒と思われている事がただ悲しいのです。」と答えた。これを聞いた文王は宝玉師を派遣し、原石を磨かせてみた。すると、それは世にも稀な宝玉であり、“和氏の璧”と名づけられた。
これは、真理が世に認められがたいたとえとして“韓非子(かんぴし)”に載っている話である。

周から春秋時代になると、この刑は頻繁に行われ、国君の専用馬車を私用に用いた者は足切りの刑に処す、などの条例も目立つようになった。
斉の景公の時代は特に厳しく、この刑を受けたものは数知れない。ゆえに、足を切断された後につける義足(踊)の値が暴騰し、靴の方が安くなるという事態も発生した。“履賤く、踊貴し(くつやすく、ようたかし)”といわれた時代である。
春秋時代ではこれら足切りの刑を受けた者は、大きな門の門番の職に就かされ、その社会的地位は低かった。

この頃は、げっ足の刑を行う時、その罪の重さにより、片足だけ切るか、両足とも切るか、が決められていた。一般的に軽犯罪はどちらか片側、重犯罪は両方だった。また、片側だけの時はその罪の内容により左右どちらかが決められた。罪を犯したものがその場所に最初にどちらの足で入ったかで決められたこともあり、その場合は、左足から入れば左足を切られ、右足から入れば右足を切られた。

漢の文帝は10年(前167)に肉刑を廃止し、それまで左足指の切断を受けるべきであった罪人には鞭打ち500回に改められ、右足切断の刑を受けるべき者は棄市(きし・斬首刑)となった。同時に、左足指に【金大】(たい・鉄枷)を用いる罪科は足指切断の刑に変更された。【金大】は鉄製の刑具で、重さ6斤(約1.5キロ)であった。左の足指にはめると自在に取り外しはできないが、もし、取り外せば、もちろん別の罪が加えられる。当時、密かに鉄器を鋳造したり、海水を煮て塩を作ったりした者は“左趾に【金大】す”という法令でこの刑に処された。後漢末の曹操(そうそう)の頃には、戦乱に次ぐ戦乱で鉄が非常に不足していたので、【金大】が木械(ぼくかい・木でできた枷)に変わった。

漢代以降は、南北朝時代に復活し、この時は“脚筋を断つ”ということで、アキレス腱を切られた。唐代には再び廃され、追放3000里、服役2年に改められたが、酷刑濫用時代の明でまたも復活した。太祖朱元璋(しゅげんしょう)は、洪武22年(1389)3月に“球蹴りをした者はげっ足の刑に処す”という法令を発布し、指揮官と兵士が右足を切断され、一家が追放されたという。

日頃当たり前に使っている歩行機能という重要な部分を断つこの刑も、肉体、精神ともにダメージを与える酷刑であろう。

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