顔などの体に針を刺して文字を刻み、その後に墨か顔料をこすりこんで永久に消えないようにする刑で、“五虐”のひとつ。一部の人々が今日でも行っている、いわゆる刺青やタトゥーと同じものと考えて良い。時代によって、刺青を施す場所は顔だけでなく、肘や首などにも行われ、彫られる文字も様々だった。伝説上の聖王堯(ぎょう)・舜(しゅん)の時代よりのきわめて古い刑罰。薄刑に属するが、皮肉や筋骨を傷めやすく、加えて一生消えないため、肉体だけでなく精神にも苦痛と恥辱を伴う。

初めは刀で皮膚を刻み、その後に墨や顔料を塗りこむという方法だったが、刑具は刀から次第に鑽(きり)、もしくは鑿(のみ)、そして針へと変わっていった。神経の敏感な顔に行われるので、その痛みを考慮してのことらしい。この刑に処せられる者の罪状の種類は500とも1,000とも言われるが、民の些細な過ちにさえ適用されてきたからか。

周代にはこの刑を受けた黥面の徒は貴族の奴隷として門番に使われていた。体は健全であるし、たとえ逃げ出しても顔の刺青ですぐに見つけ出すことが可能だったので使い勝手が良かったのだ。

春秋・戦国時代になっても、各国でこの受刑者は様々な苦役にかりたてられた。秦では太子が過ちを犯せばその教育係がこの刑を受けた。また、この刑を受け、さらに城旦(じょうたん)、つまり、城壁修復の重労働を同時にやらされた者は数多くいた。漢の高祖の天下取りに一枚かんだ淮南王(わいなんおう)、英布(えいふ)も若い頃にこの刑に科せられ、黥布(げいふ)と呼ばれていた。

漢の初め頃は秦代踏襲し、この刑を行っていたが、前167年、漢の文帝は肉刑を廃止、代わりに男は髪を剃り、首に鉄の刑具をはめ、4年の城壁修復の重労働、女は4年間の舂つき(うすつき)の苦役をやらされた。その後、漢の終わりまでこの刑は行われなかった。

漢代以降は再び肉刑が復活し、晋では、奴隷が逃亡した場合、最初は両眼の上に銅青色で行い、2回目は両頬、3度目は両眼の下に行われた。刺青の長さは一寸五分(約5センチ)、幅は五分(約1.7センチ)であったので、歌舞伎役者がその辺に存在するぐらいの感じと思ってほしい。時代が前後するが、秦代末の農民放棄にはたくさんの受刑者がいたので、その迫力は大掛かりな京劇のようだっただろう。ちなみに、この刑を受けた者の頭蓋骨には、死してもなお刺青の後が残るという。蛇足だが、北方異民族の匈奴は風習として刺青を顔に行う。だが、墨で描くだけなので、当然痛みはないし、後も残らない。匈奴以外の者が王に会うためには必ず顔に刺青をしていなければならないが、間違って本当に刺青をしてしまうと後々悔やまれることこの上ない。

だが、刺青は犯罪者だけのものではない。主に美や勇気の象徴を、一般人もよく彫っていた。世界中で見られるが、中国においては南方で著しく見られた。水害を避けると信じられていたかららしい。また、女性がその美しさを引き立たせるために顔へ刺青を行うこともよくあり、靨鈿(ようでん)と呼ばれた。始まりは三国時代の呉の皇帝、孫和の妻、ケ夫人。あるとき、酔った孫和が玉の如意(王侯が持つ孫の手に似た器物)をもてあそんでおり、あやまってケ夫人の顔を傷つけ、血が止まらなくなったことがあった。医者を呼んでその治療法を聞くと、かわうその骨髄と白玉、琥珀を細かく打ち砕いたものの3つを粉末にして混ぜ合わせ、それを傷口に塗れば痕も残らないように直る、ということだった。孫和は医者に処方させれば良いものを調子に乗って自分でやってしまったために琥珀の量が多すぎて傷が治った後も紅いあざのようなものが残ってしまった。だが、実はそれが、なまめかしく見えて気に入ってしまったのでケ夫人への寵愛が以前よりも深くなった。これを見た他の妃妾達が負けてなるものかと、自分から頬に紅い刺青を入れるようになった、ということだ。後にこの方法は一般人にも流布していった。

さすがにこの刑で死んだ者はいなかったようだが、逃げることができず、肉体だけでなく精神にも、死んでも消えない痛みと恥辱を与えるものとして、やはり酷刑といえるのではないか。