抉眼(けつがん)、抉目(けつもく)とも呼ばれる、目を抉り(えぐり)出す刑。眼は非常に精密で、複雑で鋭い神経が大脳につながっている。だから、生きている時に眼をえぐられる時の激痛は大変なものであり、その残酷さは先にあげた、鼻削ぎ、舌切り、手切り、足切り、に勝るとも劣らない。更に、眼はなまじ見えるだけに、抉り出されるまでの恐怖といったらない。目薬をさす時ですら、最初のうちは、えらく恐ろしいものだ。それが、鋭利な刃物や先の尖ったものが迫ってくる時の気分といったら・・・・・・。

南北朝の宋のとき、前廃帝劉子業(りゅうしぎょう)は道理に外れたならず者であった。江夏(こうか)王の劉義恭(りゅうぎきょう)と尚書令(しょうしょれい)の柳元景(りゅうげんけい)は、密かに劉子業を廃して新帝を立てようとしていたが、そのことが漏れ、永光(えいこう)元年(465)、8月に、劉義恭と4人の子供が殺された。その時、劉義恭の屍体は解体して内臓が飛び散るまで打ち砕かれ、更に眼は抉り取られて蜜に漬けられた。これは、“鬼目粽”(おにめちまき)と呼ばれたという。

上の例では目を抉り出すのは死んだ後であったが、先に述べたように、生きたまま目を抉ることも当然あり、その例は少なくない。後漢末の董卓(とうたく)の乱の際、捕虜になった兵や民には様々な酷刑が施されたが、この刑もそのひとつに含まれる。鑿眼(さくがん)と言い、鑿(のみ)で眼を抉り出すものだ。三国時代、呉の最後の皇帝孫皓(そんこう)も、この鑿眼を用いている。五胡十六国時代では、眼光が鋭い者がいると、その眼を直ちにつぶした赫連(かくれん)というものが大夏(だいか)にいた。隋でも、煬帝(ようだい)のときに車騎将軍(しゃきしょうぐん)までのぼった、酷薄で知られる魚賛(ぎょさん)というものが、部下に肉を焼かせ、焼き方が自分の気に入るものでないと、その部下の眼を、肉を刺す竹串で突き刺した、という話がある。

明代では、大盗で1度捕らえられて脱獄したが、再び捕まえられたような特別な罪人にだけこの刑を施したという。二度と逃げられないようにするためだ。この、逃げられないように、という考え方は、裏社会においても適用された。乞食の集団による秘密組織では、少女達を誘拐しては眼を抉り、逃げられないようにした挙げ句、物乞いをさせたという。眼がなくなり、顔付きが変わってしまった少女達は家族が見つけだすことは難しく、しかも、眼の悪い少女が物乞いとなると、憐れみを買いやすく、実入りも多くなるからだ。組織の頭は昼間に少女達に物乞いをさせ、その実入りを一人占めし、さらに、夜にはその身体をなぶりものにした。

清代でも重罪人を捕まえてくるたびに、真っ先にその眼を抉り出した督撫(とくぶ・取締官)がいた。彼は、重罪人達が二度と悪事を働けないように、と、再犯防止策としてこの刑を用いていたというが、その方法はいささか、きちがいじみている。眼を抉り出すときに何の器具も使わず、自分の手の指を使ってこそぎ出すのである。罪人はもちろん泣き叫ぶが、そんなことには一切動じない。そして、抉り出しが終わると、指に付いた血を自分の襟でふきとる。時が経ち、その襟はたくさんの罪人達の血で臙脂(えんじ)色に染まったが、それを洗いもしなかったという。彼は、血に染まった自分の襟を見るたび、笑みを浮かべていたのだろう。

ここでも、自分の変わらぬ愛を証明するため、女性が自分の目を刺し貫いたという例があるので、紹介しておこう。元の時代、都に樊事真(はんじしん)という名妓がいた。参議官の周仲宏(しゅうちゅうこう)と相思相愛の仲になったが、彼は都を離れて江南(こうなん)に帰任しなければならなくなった。都の門の外まで見送りにきた樊事真に、周仲宏が言った。「別れた後もどうか操を守って他人から笑われるようなことはしないでくれ。」と。樊事真はこれに答え、「もしもそのようなことがありましたら、この片目を抜き取ってお詫びいたします。」と返した。だが、それから間もなく、ある権勢家の御曹司が彼女を気に入り、樊事真の母親もその話にのるようにと、せまった。時が経ち、周仲宏が都に戻ってきた。樊事真は、「あなたが去られた後、私は操を守ろうと願っておりましたが、やむにやまれぬ事情でこのようになってしまいました。あの日の誓いを空しいものにしたくはございません・・・。」と言うと、金のかんざしで、さっと左目を刺し貫いたのだった。周仲宏は驚いたが、樊事真の心意気に感じ入り、二人は元のさやにおさまったという。